この度、藤樹の里文化芸術会館では、滋賀県にゆかりのある作家のグループ展を開催します。
第7回となる今回は、「息を吸って吐くために」をテーマに、身体を使った等身大の表現を行う作家たちをご紹介します。
生理現象である排泄行為を日記のように記録したり、自作の装置と自身の身体で芸術を紡いだり、実態のない声を目に見える形にして残したり、「私」が今を生きてきた/生きている/生きていくことと真摯に向き合った作品が並びます。ぜひご覧ください。
連携プログラム展覧会
成安造形大学【#キャンパスが美術館】
キャンバスが美術館開館15周年記念展覧会
2025秋の芸術月間セイアンアーツアテンション18
Chronoscape/蓄積された時間、継続する行為
会期|10月10日[金]ー11月7日[金]
会場|成安造形大学
詳細|https://artcenter.seian.ac.jp/exhibition/8050/
ー息を吸って吐くためにー の手引きとして
”息を吸って吐く”という生理的な行為は、あらゆる生命に共通する生きることの
根源的な営みである。寝ている時でさえ当たり前にしている呼吸を、私たちは生ま
れてから死ぬまでの間、絶えず繰り返し継続していかなければならない。
一方で、現代では人種、ジェンダー、経済的、身体的、精神的など様々な問題が
浮き彫りになり、誰しもが大なり小なり息苦しい・息が詰まるような生きずらさを
抱えていることが表面化してきた。その中で、緊張を和らげるために深呼吸をしたり、
集中や感動のために無意識に止めていたり、発声や運動に際しては腹から意識的に
してみたりと、個人個人それぞれがありとあらゆる感情や事象を交えながらも息を
吸って吐いて生きている。
本展ではその生きていくための行為を出発点に、生と身体と表現との関係を探る
3名の作家を紹介する。
林の『Phonation piece』シリーズは、樹脂を口に含んだまま声を発することで、
その時の口の中の形を型取った作品である。存在しない声の形をそのままリアルに
顕現させたものであり、それはその時々の緊張による震えや嗚咽のようなつかえな
ど、意識していない部分までもを可視化する。音声情報で得られる声色やトーン、
あるいは文字情報で得られる正確さとはまったく異なる形で声を記録し、1音1音、
一呼吸一呼吸を観る者に丁寧に精密に認識させるのだ。特に吸う/吐くを繰り返し
た『Phonation piece -breath-』は、同じ動作の繰り返しであるにも関わらず、10点
は全く同じものではあり得ず、また完璧に再現することもできない。下記岩坂の作
品にも言えるが、一瞬の身体の形を残す行為は、生きてきた痕跡を確かな形として
留めようとするものだ。
なお、本展では展示室1の入口に設置されている制作過程の映像を先に鑑賞する
形になる。その過程には生み出す困難さや苦しさがまざまざと映し出されているが、
その後作品はしりとりといった言葉遊びや、林と父親との何気ない会話、美しい標
本のような記録へとグラデーションを持って展開される。
また林は本展に際して、中江藤樹に関するリサーチをしている。作品に落とし込
むまでには至らないかもしれないが、会期中に更新されていくスタディ作品として
楽しんでいただければと思う。
岩坂の『須臾再顕』は、いっけん絵具を飛び散らせた抽象画のように見えるが、
近付いてみればその絵具の形は切り取られてしまっていることがわかるであろう。
偶然できてしまった形に向き合い、それを見つめ直しながら途方もない時間と労力
を懸けて、写経のように黙々と描かれた痕跡を排除したのである。
また、展示室1のガラスケースに並ぶ『Living Message』シリーズは、左記のと
おりそれぞれ1点ごとに1か月分を費やしており、本展ではそれが16点。要は1
年6か月分の生の残骸がずらりと並んでいる。素材は尿というネガティブでマイナ
スなイメージであるものの、岩坂はそれをミニマルな絵画作品としてあっさりと淡々
と並べてみせる。涙や精液のように特別な感情や別のテーマは付随させず、純粋に
生きている上で当たり前に行われる営みの痕跡を、確かな生きた証として可視化さ
せているのである。それは日々の繰り返しの中で彼が存在した記録であり、社会や
美の規範から逸脱したものを再認識することであり、時間をかけた作業の集積は圧
倒的な力を持って作品を確固たるものにしている。
菊池の個別の作品内容は左記をご覧いただくとして、彼はこれまで美術史から参
照したイメージを生産するために、自ら設計、制作、そして身体を酷使することで
完成する装置を発表してきた。林と岩坂の作品も制作過程に生々しさや泥臭さやが
うかがえるが、菊池も同様、円をひとつ描くためにマラソンのように全身で何千回
何万回とハンドルを回し続ける労力が必要となる。
美術史といえば、世界最古とされる洞窟壁画は6万5000年前のものである。少
なくとも人間はそこから芸術を、時代に沿って形式や概念を揺れ動かしながら連綿
と紡ぎ続けてきた。それはこの先も人間の根源的な営みとして、到底なくなるもの
ではないだろう。
そのような美術史上の傑作を今現在に装置によって生産することと、その過程に
無駄ともいえる労力を費やすことは、菊池の生産するパラレルな美術史作品と参照
元作品、あるいは他様々な物事同士の間に大きなギャップを生み出す。そのギャッ
プの狭間には、美術の持つ豊かさや人間が美術を紡ぎ続けることへの問いを見出す
こともできるし、鑑賞者それぞれが新たななにかを見出すこともできるであろう。
3名の作品はミニマルでモノトーンなビジュアルをしているが、その制作過程や
作品の仕組みにはいずれも狂気的なほどの苦痛や時間や労力が含まれている。しか
しそれらは高らかに華やかに提示される主義主張ではなく、現代社会において生を
持続することの困難さと向き合いながら、息を吸って吐くためにとにかく頭や手を
動かすような、自身のミクロな行為を足掛かりにして模索し続ける切実な営みでも
ある。
そして、声や時間を可視化したり、身体の一部だったものを記録したり、労力を
ひたすらに反復し続ける、効率とは真逆のプロセスを紡ぐ彼らのその手つきのひと
つひとつは、過去・現在・未来へと続く人間の生の証そのものである。
藤樹の里文化芸術会館 学芸員 花田 恵理
