ルージュの痕跡
芸術は身体の一部を痕跡として残すことから始まった。旧石器時代の古代壁画には壁や岩の表面に手を置き、その上から顔料を吹きつけた「ネガティヴ・ハンド」と呼ばれる手の痕跡が数多く残されている。これら洞窟内の手の痕跡が何を意味するのかは、サインや家系図、あるいは儀式などさまざまな説があり、どのような意図があったのか未だわかっていない。
林葵衣の個展「水の発音」で目にするのは手ではなく、たくさんの唇の跡である。これら唇跡は、作者が唇に口紅を塗り、刻印・転写したものだという。これら「ルージュ」の痕跡は何を意味しているのだろうか。何らかの伝言なのか。あるいは、口紅が喚起させるエロティシズムやセクシュアリティ、欲動の象徴(セックス・シンボル)なのだろうか。だが、林の口紅跡に見るべきは、口紅という素材ではない。洞窟壁画に残されたネガティブハンドのように、口(唇)という「洞窟」から発せられた見えない「声」である[1]。口紅はネガティブ・ハンドにおける顔料であり、インクでしかないのだ。
では、なぜ「声」なのだろうか。はじまりは林が雑踏ですれ違った人が発した「water」の発音の美しさに魅かれたことに由来する。都市の雑踏のなかで「声」を聴きとってしまうことは誰しも思い当たる経験である。だが、声の聴取という経験=出来事は一瞬間のうちに消滅してしまう。ロラン・バルトは「身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではなかろうか。(中略)二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現~消滅の演出である」[2]と書いたが、唇という「口を開けている所」も同じだろう。林は出現しては消滅してゆく「声」を留めるべく、唇で言葉を発音する行為を転写・刻印することで、「声」を可視化しようとしたのである。それでは、私たちはどのような「声」を聞くのだろうか。
展覧会はギャラリー入口のガラスの引き戸を開けるところから始まる。見落としてしまいそうになるが、このガラス引き戸はガラス面にルーターによって白い細線が引かれた《水の発音》という作品なのである。観者は「水の発音」というドアを引き(音を立てて)、口中へと進む。
ギャラリーに入ると、会場中央に並行して立てられた約2メートルの板ガラス2枚が並ぶ。入口側から《みず/water》、《tonge score》である。《みず/water》は上下に白い唇跡が6つ見え、《tonge score》では、複数の五線譜上に音符のように唇がある。ガラスの作品といえば、マルセル・デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称大ガラス、1915-1923)が挙げられるだろう。デュシャンの大ガラスはエロティシズムやイメージの言語性、緻密な技術と偶然性を有した作品であり、今作においても共通点を指摘できよう。
だが、林の場合は消えてゆく言葉、発音の出現と消滅の可視化のためにガラスを支持体としているのではないか。声は泡沫のごとく、ガラスの境界面に現れては消えていく。そして、ガラス作品が2枚平行で展示されることで、作品そのものが可視と不可視の両義的な存在として現前するのである。
壁面に目を向けると、唇が印された作品が大小さまざまに11点展示されている。唇ではないが、身体の全身または一部を転写した作品として、イヴ・クラインの《人体測定》が挙げられよう。《人体測定》シリーズは、裸体の女性モデルにIKB(インターナショナル・クライン・ブルー)の絵の具をつけ、魚拓のようにキャンバスに身体を押しつけることによって描かれた絵画である[3]。しかし、林は「人体」ではなく、唇という身体の一部分の転写・痕跡であり、発話を試みていることに特徴がある。本展が「水の発音」と題されていることに注意しよう。林が声に魅かれたのも「water」という単語であった。ゆえに、「唇」跡が一つではなく、複数、連続して転写されているのである。発音された言葉には、宮沢賢治の『ポラーノの市場』からの一節[4]や「みず」、「とおくひびくおと」という回文があり、さらに日本語の46音を透明な缶蓋に一音づつ発音(転写)した書体見本のような《Phonation》がある。
では、これらの言葉に何らかの意味やメッセージがあるのだろうか。おそらく唇跡を見ただけでは、どのような言葉が発音されたのか判読することはできないだろう。むしろ、林は発音という身体行為とそれに伴う言語の不整合、不一致を視覚化し、文章や言葉の意味を解体するのである。
これまでの林作品もこのような意思と身体行為が孕む差異(ズレ)を可視化した作品であった。《くずれる -黒-》(2011)は、画面の中央に沿って押されたRとEのスタンプの文字列が押印行為の過程で崩れ、行為と表象の不整合を視覚化するものであった。このように林は身体の(不)規則性を自身の身体を媒介にして可視化してきたのであり、本展の作品もその系譜にあるといえよう。つまり、林は素材を「手」から「唇」へと変えたのである。
川田順造は「声は私の体内から出るものでありながら、口から発せられたあとでは他人と共有されてしまう」[5]と書き、「声を発することがもつ暴力性、凌辱性と、声を人前にさらすことへの羞恥という両極性」[6]を指摘した。そう、声を発することには両極性がある。
それゆえに本展は少し居心地の悪さもある。口内の境界である唇を通じて、見えない体内を見せられているような、カップやシャツに付着した口紅の痕跡のように、自身で管理・制御できない部分や無意識の所作、身振りの痕跡を想起させるからである。それは、川田が述べたように声のもつ私的、生理的な感覚であり、雑踏の中で偶然に声を聞き取ってしまうような出会いの突発性、瞬間の共有・視覚化でもあるだろう。
林が転写した声は「無音」のモノローグであり、声の痕跡は林の鼓動「息(生)き」の視覚化であった。だが、音や声は聴取する他者を必要とする。「水の発音」に潜む「声」の痕跡に耳をすますとき、聴こえるのはどのような「音」だろうか。それは対話(ダイアローグ)の始まりである。
平田 剛志 (京都国立近代美術館研究補佐員 / 美術批評 )
(2016.06.26)
撮影|守屋友樹
[1] 林が声を主題としながら素材に化粧品である口紅を選んだことは、誤解を招きやすい選択ではあっただろう。商品である化粧品にはさまざまな意味や比喩、イメージが装われているからである。今後の課題であろう。
[2] ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳、みすず書房、1977年、18頁(Barthes, Roland, “Le Plaisir du Texte”, Éditions du Seuil, 1973.)。
[3] 《人体測定ーANT91》(1960)では、IKBを塗布した裸体モデルの全身が紙に刻印されただけなく、赤い口紅の跡も確認できる。
[4] 「あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。」(『ポラーノの市場』)
[5] 川田順造『聲』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1998年、11頁。
[6] 上掲書、11頁。